2012年 01月 13日
ガレージの竜 |
うはは、今日は13金だ~~~。
わたしゃ、迷信は勿論のこと、理外の理だとか、心霊現象だとか、超能力だとか、そういうものは一切信じない。
頭っから信用してない。
ただし、嫌いなのではない。
いや、嫌いどころかアナタ、大好きなんですよこれがまた。ええ。
やれマリア像が血の涙を流したの、それ山の湖に怪獣が出たの、どこぞの空をUFOが飛び回っただとか、ナントカの大予言だとか、その他もろもろ大好きでございます。
野次馬根性で、ワイワイ騒ぐのが楽しい(笑)。
ただし、小指の先ほども信じちゃいません。
信じていないからこそ、心から楽しめるのだと思う。
ウソと承知で楽しむのと、本気で信じ込んでアチラ側に行ってしまうのとでは、大きな隔たりがある。
若い頃一連の著作を読んで、最近また読み返しているカール・セイガンの『科学と悪霊を語る』
これが非常に面白いのであります。
有名な「ガレージの竜」のくだりなんか、何度読んでも面白い。
A 「うちのガレージに、火を噴く竜がいるんだ」
B 「へえー、見せて」
A 「いいとも。ほら」
B 「……どこにもいないじゃん」
A 「あ、ごめん。言い忘れた。うちの竜、姿が見えないんだよ」
B 「そっか。んじゃ、ここの床に粉をまいて、竜の足跡がつくようにしよう」
A 「いいね、それ。だけど、残念だなぁ、うちの竜、宙に浮いてるんだよ」
B 「じゃあ、赤外線探知機で、吐く炎を計測しようよ」
A 「なるほど。でも、目に見えない火は熱くないからなぁ」
B 「よし。じゃ、スプレーペイントを吹きかけて、見えるようにしよう」
A 「あいにくだなあ、うちの竜は物質で出来てないから、ペンキはつかないんだよね」
とまあ、こんなような話です。
つまり、「目に見えず、物質で出来ていず、宙に浮かんで熱くない火を吐く竜がいるというのと、そもそも竜がいないのとは、どこが違うのか」
ということ。
「いる」という主張を論破する術がなく、反証をあげるような実験を考え付かないのならば、竜が存在するという主張に一体どんな意味があるのか?
ということです。
以下、本文から引用。
「検証できない主張、証明しようのない主張は、たとえそれがどんなにわれわれの心を躍らせ、不思議を思う気持をかきたてたとしても、真実としての価値はないのである」
証明の義務は、主張した側にある。
証明し、反証を受け、それを論破して更に証明する。
それが出来ないのであれば、そこに何かしらの価値を見出すことは出来ない。
世に溢れる超常現象(の、主張)は、要するにこれなんです。
その人がそう言っているだけ。
それだけ。
だから私は、それを聞くだけ。
聞いて喜ぶだけ。笑うだけ。ワイワイ楽しむだけ。
超常現象や超能力や、予言や占いは、結局は人の脳という摩訶不思議な器官から出てくるものだということです。
まことに残念なことにセイガンは亡くなってしまったけれど、その精神は多くの人に受け継がれて生き続けると思います。
わたしゃ、迷信は勿論のこと、理外の理だとか、心霊現象だとか、超能力だとか、そういうものは一切信じない。
頭っから信用してない。
ただし、嫌いなのではない。
いや、嫌いどころかアナタ、大好きなんですよこれがまた。ええ。
やれマリア像が血の涙を流したの、それ山の湖に怪獣が出たの、どこぞの空をUFOが飛び回っただとか、ナントカの大予言だとか、その他もろもろ大好きでございます。
野次馬根性で、ワイワイ騒ぐのが楽しい(笑)。
ただし、小指の先ほども信じちゃいません。
信じていないからこそ、心から楽しめるのだと思う。
ウソと承知で楽しむのと、本気で信じ込んでアチラ側に行ってしまうのとでは、大きな隔たりがある。
若い頃一連の著作を読んで、最近また読み返しているカール・セイガンの『科学と悪霊を語る』
これが非常に面白いのであります。
有名な「ガレージの竜」のくだりなんか、何度読んでも面白い。
A 「うちのガレージに、火を噴く竜がいるんだ」
B 「へえー、見せて」
A 「いいとも。ほら」
B 「……どこにもいないじゃん」
A 「あ、ごめん。言い忘れた。うちの竜、姿が見えないんだよ」
B 「そっか。んじゃ、ここの床に粉をまいて、竜の足跡がつくようにしよう」
A 「いいね、それ。だけど、残念だなぁ、うちの竜、宙に浮いてるんだよ」
B 「じゃあ、赤外線探知機で、吐く炎を計測しようよ」
A 「なるほど。でも、目に見えない火は熱くないからなぁ」
B 「よし。じゃ、スプレーペイントを吹きかけて、見えるようにしよう」
A 「あいにくだなあ、うちの竜は物質で出来てないから、ペンキはつかないんだよね」
とまあ、こんなような話です。
つまり、「目に見えず、物質で出来ていず、宙に浮かんで熱くない火を吐く竜がいるというのと、そもそも竜がいないのとは、どこが違うのか」
ということ。
「いる」という主張を論破する術がなく、反証をあげるような実験を考え付かないのならば、竜が存在するという主張に一体どんな意味があるのか?
ということです。
以下、本文から引用。
「検証できない主張、証明しようのない主張は、たとえそれがどんなにわれわれの心を躍らせ、不思議を思う気持をかきたてたとしても、真実としての価値はないのである」
証明の義務は、主張した側にある。
証明し、反証を受け、それを論破して更に証明する。
それが出来ないのであれば、そこに何かしらの価値を見出すことは出来ない。
世に溢れる超常現象(の、主張)は、要するにこれなんです。
その人がそう言っているだけ。
それだけ。
だから私は、それを聞くだけ。
聞いて喜ぶだけ。笑うだけ。ワイワイ楽しむだけ。
超常現象や超能力や、予言や占いは、結局は人の脳という摩訶不思議な器官から出てくるものだということです。
まことに残念なことにセイガンは亡くなってしまったけれど、その精神は多くの人に受け継がれて生き続けると思います。
by robbie-the-great
| 2012-01-13 21:44